大崎市(大崎氏)の由来

平成18年古川市他6町が、合併し大崎市が誕生した。大崎市の名前は、室町時代から250年続いた豪族の大崎氏に由来する。
大崎市のルーツは、福井県の小浜である。小浜の斯波氏が奥州管領として東北に来て「斯波大崎氏」を名乗っていたが、その後「大崎氏」に改称した。大崎氏は、加美・玉造・志田・遠田・栗原を擁し「大崎耕土」と「金成耕土」を中心に35万石の大豪族であった。

時代を経て、戦国時代に豊臣秀吉の「奥州仕置」による反発から起きた「大崎葛西一揆」の鎮圧を豊臣秀吉から命ぜられた伊達政宗により、13代続いた大崎氏は滅ぼされた。大崎の遺跡は城、神社仏閣、累代の墓碑まで破壊され又、末裔も定かでなく後世「まぼろしの大崎氏」と言われるようになった。

大崎氏11代義直の末娘「としょ姫」は、大崎氏の分家筋である山形の最上義光の正室となった(大崎御前)。その最上義光の妹「義姫」が伊達照宗の正室となり長子伊達政宗を産んだ(お東の方)。即ち、大崎・最上・伊達は極めて近い姻戚関係にあった。大崎氏が滅亡した後、秀吉の命により政宗が米沢より岩出山に転封となり、大崎領を統治することになった。

伊達62万石の内、35万石はその大崎氏所領分を引き継いだものである。
伊達藩にとって重要な穀倉地帯である「大崎耕土」は、伊達一門の「岩出山伊達家」や「涌谷伊達家」等が統治した。「岩出山伊達家」の家祖は政宗の4男「伊達宗泰」であり、伊達11門の第8番目の家格であった。又、「涌谷伊達家」は第4番目の家格であった。

涌谷千代「伊達安芸宗重」は、昭和33年に上梓された山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」で一躍全国的に有名になった。
 「伊達騒動」を扱ったこの小説では大老酒井雅樂頭の屋敷で尋問中に宗重を刺殺した「原田甲斐が悪玉」で「宗重が善玉」と云う従来の史観とは逆の設定となっている。

さて、主家を失った大崎家臣団の大半は最上義光あるいは、伊達政宗に誼を通じて家臣に取り立てられたりして四散した。
13代250年で滅亡した名門「大崎氏」の名前は400年の歳月を経て「大崎市」として再び蘇ったのである。尚、大崎伊達氏と開墾・整備されてきた大崎耕土は平成29年に日本で9番目になる「世界農業遺産」に認定された。

出典『疾風伝遥かに』『戦国時代の大崎家家臣団』
『伊達騒動と伊達安芸宗重』『涌谷の文化財』
                                           古川第三教場・涌谷教場  幸頭英風



大崎耕土「世界農業遺産」

大崎地域の1市4町(大崎市、涌谷町、美里町、加美町、色麻町)のエリアが世界農業遺産および日本農業遺産として認定されています。本地域は、江合川、鳴瀬川の流域に広がる野谷地や湿地を水田利用することで、水田農業地帯として発展してきました。

その一方で、東北の太平洋側に特有の冷たく湿った季節風「やませ」による冷害や、山間部の急勾配地帯から平野部の緩勾配地帯に遷移する地形的要因による洪水、渇水が頻発している地域でもあります。

しかし、本地域の農家は、厳しい自然環境下で食料と生計を維持するため、「水」の調整に様々な知恵や工夫、多くの苦労を重ねながら、稲作を中心とした水田農業を発展させ、大崎耕土」と称される豊饒の大地を継承してきました。
                                       (大崎市のホームページより 広報)

2020年12月29日