【宮城文学散歩】土井晩翠他=白石市=

白石城 -景綱公頌徳碑や二代横綱谷風梶之介・大砲万衛門の顕彰碑や銅像の他、松尾芭蕉ほかの句碑-

白石城は白石駅から西の丘陵上にある。 当城は、 1602年に伊達政宗より、片倉小十郎景綱がこの地を拝領し明治維新まで11代、約260年にわたり、片倉氏1万八千石の居城とされた。景綱は政宗の腹心として参謀・前線の指揮官として政宗の覇業に大きく貢献した知将とされた。
戊辰戦争の際には奥州越列藩同盟の会議所となった城である。当城は平成7年に復元された。
本丸跡には景綱公頌徳碑や二代横綱谷風梶之介・大砲万衛門の顕彰碑や銅像の他、松尾芭蕉ほかの句碑 があり、城跡の北隣に白石城歴史ミュージアムがある。

甲冑堂 -おくの細道」の中の「曾良日記」に白石に宿すとあり-

白石市斎川(斎川宿)に坂上田村麻呂を祭神とする田村神社があり、 境内に昭和14年再建された「甲冑堂」が立つ。
堂には源義経の家臣佐藤忠信・継信兄弟の妻、楓初音の甲冑を着けた大きな木造が収めらている。
※夫の甲冑をつけた妻女たち甲冑堂には、源義経の家臣、佐藤継信・忠信の妻女たちを讃えて、その像を安置しています。継信・忠信は義経の身代わりとなって、敵に討たれました。その母がこれを嘆くのを見て、兄弟の妻、楓と初音が夫の鎧、兜をつけて老母を慰めたと伝えられています。(出典:白石市ホームページより)
「おくの細道」の中に「曾良日記」によると忠信・継信の地元福島県飯坂町の医王寺に詣で石塔を見、それから斎川宿に入り「忠信・ 継信が妻の御影堂」を見て白石に宿すとある。

孝子堂 -境内には徳富蘇峰の書跡の碑と土井晩翠の歌碑-

白石市大鷹沢三沢の地に「碁太平記白石噺」として歌舞伎にも演じられるなど「奥州白石囃子」として有名な宮城野・信夫姉妹と父与太郎の霊を祀る「孝子堂」がある。
時に江戸期の寛永時代・百姓の与五郎は二人姉妹と田の草取りをしていたところ白石城下剣術指南の志賀団七の袴に泥がかかり、父は切り捨てられた悲劇が起きた。
その後、姉妹(本名、姉まち・妹その)は江戸へ出て由比正雪のもとで、宮城野・信夫と名をあらため、道場にて姉は鎖鎌・妹に薙刀を修めさせた。
修行をつんだ姉妹は白石に戻り、片倉小十郎公に敵討ちを願い出て、白石川六本松の河原にて仇討をとげた。
無礼討ちの場である「八枚田」(現在残されてる)の奥に孝子堂が建っている。
境内には徳富蘇峰の書跡の碑と土井晩翠の歌碑がある。(左写真(晩翠の歌碑):白石市ホームページより)

  【晩翠の歌碑】
 郷の生める宮城野信夫
 かんばしき孝女の誉
 千代に朽ちさず
                                               白石教場 鈴木岳昇

 

2022年06月18日