【宮城文学散歩】山本周五郎=船岡城址公園(柴田町)=

宮城県柴田町船岡といえば桜の名所として又、要害の城下町としての歴史もあります。
JR東北本線船岡駅から船岡城壮公園までの範囲にも、古くからのお寺や神社、城下町等の面影を感じられる特徴的な町並みが残されています。

春になると残雪を抱いた、蔵王連峰と白石川堤の「一目千本桜」と船岡城祉公園の桜が一体化した景観は一見の価値があり、外国人も「オーワンダフル!」を発しています。
ここは、宮城県で唯一、日本さくらの会より「さくら名所100選の地」に選ばれました。


~文学碑 山本周五郎作 「樅ノ木は残った」より~
公園の二の丸「絹引きの井戸」の北側に原田甲斐と柴田外記の供養塔があり「椎の木は残った展望デッキ」の後方には山本周五郎の文学碑があります。

原田甲斐は船岡城主宗資の子で、父の死により5歳で家督を継ぎ江戸時代の初期には仙台藩の重臣になっていました。
仙台藩の野谷地(低湿地)の領地境界争いから端を発し、各重臣の思惑が加わり論争、事件は起きた。
寛文11年(1671)3月27日、酒井雅楽頭邸で伊達安芸宗重が幕府に訴えた審問の席上で、原田甲斐は激昂、乱闘になり伊達安芸宗重を斬殺した。(伊達騒動「寛文事件」)で悪人とされてきた原田甲斐を山本周五郎は、小説「縦の木は残った」昭和33年(1958)で、原田甲斐が身を捨てて藩の存亡の危機を救った人物として描かれています。
昭和45年(1970)この小説を原作にして、NHK大河ドラマ「椎の木は残った」が作られ、主演平幹二朗で人気を呼びました。

尚、吟関係で行け加えると、船岡城主の末喬で大野孤山と言う軍人・教育者がいます。
いつ船岡を離れたのかは不明ですが、私たちの持っている教本には、漢詩篇、普ⅡP128に「母の心」、「舟艇守の尺八」は愛吟集P83と新愛吟集P65に採り上げられています。

退役後は逗子市小坪に居住し、元理事長の松井岳洋とは住居も近く親交が深かったようです。
祖宗範木村岳風先生・渡辺岳神・鈴木岳楠とも親交があり、昭和30年2月15日、受刑者に対する補導ため、仙台刑務所で講演中に脳出血で蕊れました。享年74。


~宮城岳風会の作詞者、故村井一岳先生について
ここで、宮城岳風会の作詞者、故村井一岳先生について紹介したいと思います。
村井先生は昭和42年1月柴田町に私費を投じて「天心館」を建設、多くの青少年の指導・育成に尽力されました。
宮城県に岳風流の組織体が発足したのが昭和45年4月12日です。その顧問のひとりとしてとして村井先生がおられた。
先生は中国の大学で学び、漢学に特に造詣が深く、夏季吟道講座や指導者研修会等の講師として、懇切丁寧に解説指導され、吟道普及に大いに貢献されました。

仙南地区で発足一番目の教場(「船岡教場」昭和47年4月発足)の指導者として又、宮城岳風会の功労者として皆さんに惜しまれつつ昭和62年7月に逝去されました。
私達は東日本大震災まで、この由緒ある「天心館」で学べたことに感謝と誇りをもって今後も学び続けたいと思います。
                                宮城岳風会会報第103号より 船岡教場 小田島 岳政

[出典]樅ノ木は残った展望デッキ(写真)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E5%AE%97%E8%BC%94#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E8%88%B9%E5%B2%A1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%A8%85%E3%83%8E%E6%9C%A8.jpg

2021年05月23日