俳諧歌の研究と演習

        平成30年1月23日
講師 宮城岳風会会長 渡会岳弘

俳諧歌のルーツについて

「万葉集」には嗤笑歌・戯笑歌など面白い歌群があり、「古今集」にはその名のとおりの俳諧歌が58首載っており、これらが狂歌、俳諧歌に発展していったと言われている。

江戸時代には滑稽文学の一つである狂歌の流行を見るが、狂歌は和歌と同じ31文字で読まれるが、歌材、用語等に制限なく、冗談、栖落、滑稽、たわむれ等を本旨とした短歌で独立した文芸ジャンルとなり、天明期に至り大田南畝等が活躍し、天明狂歌の全盛期を迎えた。

鹿都部真顔は太田南畝に学び、頭角をあらわし江戸時代後期に活躍した。真顔は鎌倉・室町時代の狂歌こそが本来の姿であるとして、和歌に接近した狂歌を提唱し、狂歌界を二分した。これより狂歌を「俳譜歌」と称した。

一茶は真顔の称した俳譜歌に興味を持ち、独自の歌を440首も残しているが、その作品からは皮肉とか風刺の心があまり感じられず、和歌詠みの決めごとに従ってそこに滑稽の発想、言葉遊びの技を駆使し、そこには和歌でも、狂歌でもない一種特有な俳味が感じられ、俳諧的境地を歌の形式を借りて表現したものとする特異な作品がみられる。

和歌から連歌-狂歌・川柳へ、或いは和歌から俳諧の連歌-連句-俳句、その多くの文学が時の流れの中に生まれてきた。

俳諧歌とは

俳諧的つまり滑稽な性質をもつ和歌のこと。「古今集」巻十九に「俳諧歌」の部立があって、58首を収めるのが名称のはじまり。中国の詩に用いられた用語に由来する。滑稽な歌はすでに「万葉集」第16に戯笑歌、嗤笑歌などがあり、その系統に属する歌である。

「古今集」の「梅の花見にこそ来つれ 鶯のひとくひとくと厭ひしも居る」は、梅の花(女)と鶯(男)とが会っているところへ第三者がやってきたのを、鶯が「入来(ひとく)入来(ひとく)と鳴いて厭うという趣向であり、「山吹の花色衣主や誰と問えども答えずくちなしにして」は、山吹色の衣の持ち主を問うが答えない。クチナシ色(黄色)の口無しなので、と掛詞の興味を骨子としたものである。

俳諧歌の起源

俳諧歌とは「ざれごと歌」とも称され、和歌の一体で五・七・五・七・七の31文字短歌形式を採っている。伝統和歌に比べ字のごとく「俳」はわざおき「諧」は、たわむれ、おどけ、かなう、ととのう、など。滑稽味を帯びた歌がまとめられており、その中の嗤笑歌、戯笑歌の類が俳諧歌、狂歌へ発展してゆくと言われている。または俳諧歌と言うと「古今集」の俳諧歌も源流と言われ、よく引き合いにだされる。

「万葉集」最後の歌は天平宝字3(759)であるが、その後、漢字の隆盛に押され、一部のものを除いて和歌は長い眠りの時に入る。それから146年後の905年醍醐天皇の時、わが国最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」が撰進され、和歌は文学の主導的地位を確立していく。その「古今集」の巻十九雑体として、58首のこの俳諧歌が載っている。

この俳諧歌の「誹』の意は、そしる、悪口を云うの意であるので、俳諧歌とは悪口を云う、ふざける、おどけたり、と正体の歌に対して何か欠点のあると云う歌なのか。またこの「誹」を「はい」と読むか、「ひ」と読むかは辞書ではまちまちである。

嗤笑歌が滑稽とすれば、俳諧歌はおどけ戯れともなろうが、そんな滑稽戯れの中にも歌風は、一般にいう万葉調とか、古今調といわれる正体の歌に違わず万葉集の笑歌は実況実景、行動的素朴に対して、古今の俳諧歌は思慮的、創作技巧的という差を見せる。「万葉集」は万葉仮名であり、難関であったが、古今時においては一般的に、万葉集の歌風は「古今集」に引き継がれなかったということも認識しておきたい。

俳諧歌も古今の正体歌から見れば、俳諧歌的とも云え、俳諧歌の源流として時の経過の中で考察されたであろうが、双方には滑稽という意味では共通点がないではないが、総体的に異質なものと思える。滑稽と言う意味では庶民の立場で見れば、嗤笑歌の方がよほど俳諧歌という言葉通りの、滑稽さがあるといえる。

すでに述べたように和歌から連歌、狂歌、川柳へ、あるいは和歌から俳諧へ、さらに俳諧の連句、俳句、その他多くの文学が時の流れの中で生まれてきた。和歌が文学の主導的地位について久しい。「歌謡から創作和歌として今の歌体となってからは1400年が経過している」これからも私たちでは名も知らない新しい文学が人々の心の現われとして生まれ、この系譜に加わっていくだろう。

まとめ

万葉集の中の歌四千五百首のうち、4200首が短歌(五・七・五・七・七の形)であり、この定型詩のみが、その後現在まで引き継がれる。そんな中、江戸時代に滑稽文学の一つである狂歌の流行を見る。その狂歌の一派、鹿都部真顔(1752~1829)が狂歌を「俳諧歌」と称した。狂歌、俳諧歌のルーツは先に述べた通りである。

一茶は俳句、俳文と共に生涯にわたって俳諧歌を詠みました。その数は450首ぐらい。

一見、謎めいた詠みもある一茶の俳諧歌のすべてを読み解いてみて、感じることは、その豊かな発想と言葉を思いのままに操るおもしろさにあります。それは和歌の修辞と一茶独自の遊び心に基づくものであり、一茶の和歌に対する尽きぬ情熱による造詣のほどが伺えます。

それはまた、掛詞、たとえ、対句、古歌等々あらゆる技と知識をもって作文された一茶俳文と通じるところもあり、一茶の俳文と俳諧歌はその表現方法において切れない関係にあります。

しかし、一茶の句、文は既に世のすみにまで知れ渡っているのに、同じ一茶の作品である俳諧歌は、今のところ埋もれ木のままで日の目を見ずに、一般的には全く知られていないとも言えます。何故なのでしょうか。私も一茶と同じように、古典による俳諧歌的なものを詠む立場であるゆえに人一倍その疑問を感じているということかも知れません。

しかし、評価はあとからの例は世によくあることです。それは後に存在するより多くの人の目を通して、その評価が、より正しく認められてゆくということでしょう。それにつけても一茶没後180年、いかにその評価の現われが遅いとの感もぬぐえませんが、これも過程の一つの時と考えます。必ず、その作品に適った評価がされ、俳文のように、俳諧歌もその名のとおりおもしろさを味わってもらえるものと確信しています。

小林 晃『一茶謎の俳諧歌』より抜粋

参考「一茶」丸山一彦著 「一茶謎の俳諧歌」小林 晃著
  「俳諧歌撰」日本詩吟学院・小林晃共編


【作者】小林一茶 宝暦13(1763)年~文政10(1827)年。本名、信之
通称、弥太郎 別号に亜堂・雲外・俳諧寺等。信濃(長野県)の柏原の 農民の子。三歳で生母に死別し、継母と不和のため、15歳で江戸に 出て奉公生活に辛酸をなめた。25歳ころから葛飾派に入門、六ヶ年にわたる西国の旅から帰り、師の竹阿の二六庵を継いだが、宗匠として一家を成すに至らず、知友をたよって転々と流寓生活を続け、とくに成美の庇護を受けた。亡父の遺産をめぐる継母・義弟との長い 抗争のはてに、51歳で郷里に帰住、結婚して三男一女をもうけたが、子は相次いで夭折し、火災で家も失い、焼け残りの土蔵の中で不遇の生涯を終えた。享年64。

俳諧歌「子を思ふ」

     「子を思ふ」  小林一茶

     紫の里近きあたり、とある門に、
          炭団程なる黒き巣鳥をとりて、
     籠伏せして有りけるに 其夜親鳥らしく、
          夜もすがら其家の上に鳴ける哀れさに

      子を思ふ 闇やかはゆい かはゆいと
            声を烏の 鳴きあかすらん
            声を烏の 鳴きあかすらん                         (講義をする渡会会長) 

俳諧歌「ものいえぬ」

 と き 令和3年9月23日(木) ※理事会の議事終了後
 ところ 宮城県仙台市青葉区本町3-1-17 やまふくビル6F
 講 義 講師:宮城岳風会会長 渡会岳弘
     課題吟 俳諧歌「ものいへぬ」 作者:一茶

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